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 「環境未来都市づくり」(第1号) 新規連載開始
(2008/02/04発行) 
株式会社和島商業都市研究所
常務執行役員 W・SCM事業本部長
渡 辺 伸 明

1. 私にとっての環境未来都市
私は、現在、神奈川県に在住しており、1時間50分かけて、毎日、都心の勤務地まで通勤しています。したがって、24時間のうち6分の1を通勤時間にとられて、さらに仕事と併せて1日の大半を電車と空調の効いたオフィスで過ごしています。その意味では、自然環境を身近に楽しめる本来の環境未来都市とはほど遠い生活を余儀なくされていると思われるかもしれません。

しかしながら、現在の勤務地は麻布十番にあり、商店街は下町の風情を残しています。昼食後に付近を散策すれば、元麻布や有栖川宮公園周辺は緑豊かで、心癒される空間が多く残されています。

一方、居住地は、典型的な近郊住宅地ですが、自転車で1時間走れば、湘南海岸に出られ、海岸で昼寝や読書をしてのんびり過ごすことが出来ます。また、車で1時間走れば、丹沢山塊でのトレッキングを楽しみ、おいしいわき水を大量のペットボトルに汲み、その後で温泉も楽しむことが出来ます。特に冬は、丹沢山塊に入ると、冷たくて清浄な空気を吸うだけで、ストレスを発散できる気がします。夏は緑の中では、明らかに気温が3〜4度低く、温泉に入った後、蝉の声を聞きゆっくり昼寝も出来ます。

今回の執筆テーマである「環境未来都市づくり」とは、どのようなイメージの都市づくりであるかをまず考えると、現在の私の週末の生活スタイルは、既に環境未来都市を体験しているのではないかと考えてしまいます。まして、地方都市在住の人から見れば、私以上の環境未来都市を体験しているのは明らかです。

仕事の関係で、地方都市の方々と仕事をご一緒するケースが多いのですが、夕方5時には仕事を終えて、15分で帰宅し、そのまま釣りにでて、夕方7時半には、自分で釣った魚を刺身にして、酒を飲みながら夕食を食べることも多いという人がいました。その他、プレジャーボートを趣味にしたり、鳥の鳴き声コンテストに参加したり、春や秋には山菜やきのこ狩りと、実に多彩に自然環境の中で、生活を楽しんでいる方が多いのに、地方での生活経験のない私にとっては驚くと同時にうらやましく思います。

ある東京のコンサルタントが地方都市で、「これからのレジャーのあり方」という題目で講演したところ、地方生活でのレジャーの達人たちを前に、大いに恥をかいたということを聞いたこともあります。

それでは、その「環境未来都市」とは一体何でしょうか?私にとっては、技術進歩が進んだ結果としての利便性、安全性を享受しつつ、住居や勤務地での日常生活において、豊かで潤いのある自然、快適な自然を体験し、実感できる環境に恵まれている都市が、環境未来都市であると考えています。その豊かで潤いのあるということはどういうことかと考えると、人間にとっての五感、つまり視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚を快適にすることを常に留意した都市づくりを行うことにあると考えます。


2. 「環境未来都市づくり」は「過去の都市環境づくり」
それでは、現在の都市環境、特に東京等大都市における、環境上の問題点を、改めて整理してみましょう。現在の大都市は、戦後の高度経済成長に伴い、様々な経済主体により効率性、経済性優先の開発行為、生産行為等が猛烈なスピードで、かつ大量に集積して行われました。これらはほとんどが、環境等に対する技術的外部不経済の上に成り立っていました。

急激な人口増大を吸収するために大規模な宅地開発が進められ、その結果として、緑が失われ、河川の汚染や暗渠化なども進められてきました。さらに、安価な土地を求めて、地盤の悪い土地や、河川沿いの土地、傾斜地などの開発も進められてきました。その結果、都市としての防災、治水等の安全性が低下し、その対策を公共事業等で補っているのが現状です。

また、工場等による大気汚染も代表的な技術的外部不経済の例ですが、これはだいぶ対策が進みました。しかし、新たに、臨海部等での大規模開発に伴う高層ビルの林立により、ヒートアイランドの問題が深刻化しています。ヒートアイランド化の進行に伴い、強制温度調節等によるエネルギーコストも増大しています。

また、大都市は、人口密度、建物密度も大きく、さらに道路、上下水道等のインフラ整備や、補修工事も絶えず行われています。その結果として、工事騒音、交通騒音など様々な音に関する苦情も多くなっています。

以上の、開発行為、生産行為以外にも、人間の集住や、生活行為による外部不経済も数多くあります。もちろん、生活インフラの不整備にも起因する例も多いのですが、人間の生活上のルール違反やモラル欠如、あるいは意識欠如等による外部不経済として、ゴミ等不法投棄の問題や、分別収集やゴミ減量化の不徹底等廃棄物の問題、生活排水による河川等の汚濁や臭気が問題となる場所も多くあります。

さらに、開発行為、生産行為、生活行為を結ぶための流通行為もあります。流通の増大に伴う外部不経済としては、交通渋滞と排気ガス等の大気汚染などが挙げられます。これらの外部不経済を解消するための高速道路等インフラ整備が必要となります。

このように、経済主体による様々な開発行為、生産行為、生活行為、流通行為は、外部の環境に対する負荷や、ダメージを与えているにもかかわらず、それらの回復費用は、その経済主体がほとんど負担しないまま、他の経済主体である自治体や一般住民に外部費用としての負担を強いている状況下で推移していることが現在の都市環境の大きな構造的問題点であると考えます。

しかしながら、近年、経済主体による様々な開発行為、生産行為、生活行為、流通行為において、外部不経済を極小化しようとする試みがためされるようになって来ました。まだ、その試みは限定的ですが、今後、それぞれの経済主体の行為における、現在の最先端の技術力を駆使した外部不経済極小化の努力の集積が、「環境未来都市づくり」につながります。

その具体的な目標イメージは、あまり難しく考えることなく、「過去の都市環境づくり」を常に意識することではないかと思います。

よく言われることですが、江戸時代の江戸は、1700年頃には人口100万人に達し、世界一の人口となりながら、世界一清潔で美しい国であったと言われています。当時の外国人による江戸見聞録にも、江戸の町はちり一つ落ちていないと記されています。また、糞尿等による臭いもない都市であったようです。もちろん、大自然の浄化作用が、人間の汚染量を遙かに上回っていた時代ではありますが、江戸時代の都市環境づくりと現在を比較してみようと思います。


3. 循環型都市としての江戸
江戸は、1603年に徳川家康が開府しましたが、1607年には人口15万人であったといわれています。その後急速に人口が増え、まちづくりも進められてきましたが、明暦3年(1657年)の大火で、江戸のまちはほとんど消失したと言われています。その後、千住大橋下流の隅田川での架橋禁止を解いて、両国橋が架橋され、江戸の市街地拡大とともに人口も増大し、1700年頃には100万人以上、盛時には120万人の人口であったとされています。因みに、当時の日本の人口は2400万人から3000万人と言われていますので、日本の人口の約5%が集中していたことになります。現在の東京23区の人口は約870万人で日本の人口の約7%ですが、市街地面積の比較で言えば、人口集中の割合は、江戸と現在の23区は同じと言えるかもしれません。

また、当時の江戸の町全体の土地利用割合は武家地60%、寺社地20%、町地20%であったと言われています。

次に江戸の町の基本的な都市構造を見てみましょう。
武家地は、江戸城の郭内の東側、南側が大名屋敷で構成されています。城の北側の番町、飯田橋、小川町、駿河台は旗本屋敷です。また、現在の秋葉原、浅草橋、蔵前は武家地が集積しています。その周辺地に、大名の中屋敷、旗本屋敷があり、さらにその周辺の品川、新宿、千住、深川などに下屋敷という構成でした。

寺社地は、築地の東本願寺、及び浅草寺周辺が最も集積が多く、次いで増上寺から田町にかけてのエリアでの集積が多くなっています。他に、隅田川沿岸や道灌山から現在の谷中墓地にかけてのエリアなどに多くの集積が見られます。

町地は、現在の日本橋が商いの中心であり、町地も圧倒的にその周辺での集積が多くなっています。この町屋は、街道筋の沿道に立地する形で、四宿である品川、内藤新宿、千住、板橋まで延びています。江戸名所図会で日本橋を描いた図を見ると、日本橋には町人、武家の人で混雑し、川は荷を積んだ船が大量に行き交い、橋のたもとには小売りの店、河岸には倉庫、橋と直角の道路沿いには大店が並んでいます。

最も重要なインフラは、東海道、甲州街道、中山道、奥州街道の道路と海運としての隅田川が重要な役割を占めていました。

以上が、江戸の町の基本的都市構造ですが、市街地形成には変遷があります。江戸のまちづくりはまず現在の内幸町、日比谷の埋め立てから着手されました。次に両国橋架橋後、本所、深川が埋め立てられ市街地が拡大しました。手元に元禄2年(1689年)と明治4年(1871年)の古地図があります。元禄2年には既にこれらの埋め立てがほぼ完了し、市街地が拡大していました。

その後の変遷については、元禄2年は千住大橋から下流での隅田川での架橋は両国橋のみでしたが、明治4年には、吾妻橋、両国橋、新大橋、永代橋の4橋が架橋されています。また、埋め立て地の拡大は、その間、深川エリアが中心でした。元禄2年にはまだ富岡八幡宮は海に突き出ていましたが、明治4年には市街地の中にあります。しかし、両方の古地図を比較してもそれ以外の目立って大きな変化はなく、江戸初期に江戸のまちづくりがほぼ完了していたと言えます。

まず、開発行為についてですが、江戸開府後の日比谷、内幸町の埋め立ては、大がかりな土木工事で、大量の土砂を近在から調達してきたと想像できます。幕府自ら開発行為及びインフラ整備を行い、武家地、寺社地、町地として提供していったので、技術的外部不経済による外部費用も開発主体が負担していることになります。江戸の市街地が概成以降は、人口増大によるゴミ問題に悩まされた幕府は、一般ゴミを深川等の埋め立てに利用しました。各町々共同でゴミを集め、船に積んで永代浦(現在の富岡八幡宮)や州崎弁天(現在の木場)、砂村新田(現在の砂町等)に捨てて、埋め立てを行いました。これは、現在の埋め立て事業と同じ構造です。

また、当時は高層建築がないので、当然、ヒートアイランド化はありません。東京湾からの海風が、全て直接、江戸の町に来るので、風が強い日が多かったと言われています。そのため大火が多かったという皮肉な結果ももたらしたようです。現在は、川筋、水路ネットワークを活用して、東京湾からの海風を内陸部に呼び込む試みが重要と言われています。

次に生産行為については、江戸では、職人による家内工業的なものが多いため、技術的外部不経済は無いといって良いかもしれません。

生活行為については、なんと言ってもゴミ問題でしたが、一般ゴミは先ほどの開発行為と連動して解決してきました。糞尿や生ゴミについては、関東近郊農家の農作物の肥料として重要な役割を果たしていたため、有料で買い取られていました。大きな視点から見れば江戸は巨大なバイオマスで、近郊農家で太陽と江戸の肥料で農作物が生産され、それが江戸で消費され、肥料として還元される循環システムが出来上がっていたと捉えられます。さらに、薪などの燃えかすである灰も回収専門業者がいて、肥料や土壌改良、酒造、製糸製造、製紙など幅広く利用されていました。このような巨大バイオマスの発想から、大都市の循環システムを考え直してみることも必要でしょう。少なくとも生ゴミ処理については、家庭内処理などを含めて検討する余地はあると考えます。

また、当時の市民生活においては、古着、提灯、そろばん、こたつなどありとあらゆる日用生活品の修理再生職人、回収、販売業者などいて、リサイクルが都市システムとして成り立っていました。当然、江戸時代は物不足であり、日用生活品を大切に使う必要がありました。現在は、リサイクルするより新製品を買った方が安いという時代ですので、一概に比較できませんが、素材リサイクルとともに、製品再利用のシステムについても、新たな検討が必要と考えます。

流通行為については、当時、陸路は馬、人力等の荷駄運搬であり、海路は船による海上輸送でした。特に海上輸送は、全国から大量の米、木材、食料品などの物資輸送で大きな割合を占めていました。そのため、隅田川は江戸の経済心臓部の役割を果たし、沿岸には幕府の米蔵や材木蔵、各藩の蔵屋敷が立地していました。当然、陸路、海路とも排出ガスも少なく、クリーンな動力である、風力、人力、馬力などを用いており、化石燃料は使われていませんでした。

現在は、流通に限らず、開発、生産、生活のあらゆる面で、膨大な量の化石燃料が消費されています。そのため移動距離あたりの化石燃料消費効率の低い自動車から、消費効率の高い移動手段へのシフトや、風力、水力を利用した発電など、真剣に取り組みが進められてきましたが、まだ、社会システムとして充分に浸透し、化石燃料消費量削減効果が出ているとは言えません。これらの点についても、出来ることを着実に実行し、少しずつ成果を積み重ねることしかありません。


4. 五感に優しい江戸
循環型都市としての側面と併せ、もう一つの江戸の大きな特徴としては、五感に優しいと言うことにあります。

まず、視覚ですが、江戸は緑豊かな都市であり、水辺環境での景観にも優れた風光明媚な都市であったということです。多少、誇張されているにせよ、江戸名所図会を見ると、有名な神社、仏閣、稲荷、不動尊などは緑豊かで、現在から見てもすばらしい景観です。桜の名所としての品川の御殿山(品川沖の埋め立てのため土砂を削り取られ、地名のみ残っています)、飛鳥山、上野、隅田川などは、現在以上に魅力的です。特に隅田川は、物資輸送の経済心臓部としての役割以外に、江戸町民の憩いの中心的役割も果たしていたようです。春は堤の左右に植えられた桃桜やスミレやレンゲソウ、夏は川遊びによる花火や涼み、蛍狩り、秋は月見、虫聴き、冬は雪見、さらに周辺でも有名な寺社や、料亭、休み茶屋、団子などの店などが集積し、大いに賑わったようです。

また、隅田川以外にも、江戸城の内堀、外堀、神田川、埋め立て地に多く設けられた運河など多くの水路が張り巡らされていました。水路の周りは当然、桜、松、柳などが植えられ、心和む景観であったと思われます。神社仏閣以外に大名屋敷も緑豊かであったことと考えられます。それが、現在は川岸での工場立地、排水垂れ流し、暗渠化、埋め立てなどで水環境は比べようもなく劣化しています。

聴覚においては、長屋の隣近所の生活騒音や、表通りの商売のかけ声以外には、現在の人工的な交通騒音、工事騒音、低周波騒音などもなく、虫聴きなどを楽しむ音環境であったと思われます。

嗅覚については、当時のロンドン、パリなどは糞尿処理のシステムがなかったために、町中が臭気に包まれ、そのため香水が必要あったとの説があります。しかしながら、江戸はこの点、循環システムが出来ていたので、町としての臭気はそれほどひどい物ではなかったようです。川、水路も江戸初期のゴミ投棄禁止以降は、川の水を飲料出来るほど清潔を保っていたこともあり、臭気とは無縁であったと思われます。

触角については、江戸の環境、構築物、生活用品等全てが自然物であり、化学製品全盛の現在に比べれば、アレルギーも少なかったと思われます。また、川の水や動物、昆虫、植物なども現在に比べ、はるかに触れ合う機会が多かったでしょう。

味覚については、都市での収穫物が豊かで、味覚を楽しませてくれることが楽しみとなります。江戸は消費都市で、近郊農家や全国から食料品が運び込まれ、また東京湾では、江戸前の魚が取れて、町民たちを喜ばせました。これらの構造は、現在でもあまり変わらないと思われますが、江戸時代はさらに隅田川での白魚が名物であったようです。さすがに、現在、一時に比べ河川がきれいになったと言っても、隅田川で白魚は取れません。

但し、五感とも関連しますが、江戸時代は道路が舗装されていないため、雨が降ると道路がぬかるみ、風が吹くと土埃で目が開けられなくなったと言われています。


5. これからの環境未来都市づくり
今までに、環境未来都市としてのあり方を、江戸時代の都市づくりを振り返ることによって考えてきました。以上を総括すると、これからの環境未来都市づくりは以下の2点に要約されるのではないかと思います。

(1) 開発行為、生産行為、生活行為、流通行為での技術的外部不経済を最小にする取り組みをさらに進めること

・ 先端技術の駆使や、経済主体への環境意識の徹底などにより、外部不経済を最小化する努力を積み重ねること。

・ また、江戸時代に見られる循環型社会の考え方を参考に、外部不経済要因をつなぎ合わせ、相互補完的に外部経済化する試みを行うこと。

・ しかしながら、新たな産業育成、経済、産業効率化に資するインフラ整備等の外部費用は、政府、自治体側も十分に検討し、この点の社会投資も怠らないこと。

(2) 五感を満足させる都市づくりを目指すこと
・ 特に水路、水ネットワークと緑を再生、創出し、魅力的な空間を意識的に多く整備すること。

次回以降は、これらに該当するいくつかの具体的事例を紹介していくこととします。




 





 

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